ネット論2025
また、投稿者は男女対立を中心とする注目度の高い分野の投稿を繰り返し、その返信欄に自らが関わる風俗事業などを斡旋する典型的なインプレッション稼ぎを 行っています
あるコミュニティノートから引用
ネットの釣り煽りで利益が得られる業種を挙げようとしたら多すぎて書ききれない。広く見渡せばそれこそ大国、国ヤクザ、大企業のプロパガンダから、下は「自分は不幸だとか幸せだとか狂ったように主張し続ける人々」までいる。右翼団体のプロパガンダ、インフルエンサー、アフィなど有象無象も。
ガラケーのネット接続やスマホの普及に伴い、ネットはどんどん大衆化してほぼ現実化した。僕の偏見だと、おもに中高年男性が、ネットリテラシーがないせいで釣り煽り文化に洗脳され、かつリベラル化する社会についていけない鬱憤から女性やマイノリティを叩いて、10年代の嫌韓ネトウヨブームを形成した。もちろん日本会議や統一教会などの「カルト右翼連合」や、アフィの右翼ビジネスの影響もあるが。
20年代になってくると釣り煽りに疑問すら抱かなくなった。というか人々は分裂した。閉じコン的に、階級的に。バベル的に。何を言っても手遅れなので普通の人は逃げ、残った異常者はカルトが飛ばすファンネルでありつづけることが幸せになった。
コロナ禍ではスレ立て時のソースがあからさまな陰謀論サイトになった。ソースすらなくなり、ソースを気にするほうがおかしくすらなった。「俺は差別と外国人が大嫌いだ」というブラックジョークがなぜ笑えるのかを本当に理解できない人たちが増えた。このジョークはもはや喩えではなく文字通りに使われている。
90年代からの露悪趣味や冷笑ムーブを悪かったという人がいるが、僕は今のほうがよっぽどひどいと思う。昔は表と裏が分かれていたからだ。今は大衆化、現実化、すなわちビジネス化の時代であり、表と裏の境界がなくなった。ネットは法社会よりも野放しに近い。必然的に、集合知ではなく混沌に向かっていく。「ヤクザの炊き出し」がまるで任侠の義憤であるかのような安い物語にだまされる世界になってしまった。この喩えもほぼ文字通りにあちこちに見られる。
深刻なのは、これは最底辺の話ではなく、思った以上に多くの人がデマに釣られ、煽り、楽しみ、依存し、共有しているのではないか。
もちろん、教育すら一種の洗脳であるとか、物の考え方や常識なんかも結局はその時代や文化によるところは大きいが、そこまで達観せず、まずは目の前にある異様なカルト化に注目したい。
トランプ政権二期が始まり、釣り煽りを超えたムチャクチャさで世界を震撼させているが、そもそもトランプはプロレス団体やバラエティで道化を演じたプロの釣り煽り師である。イーロンはその流れをTwitterで先鋭化させた。ネット社会の分析とは現実のアメリカ政治を、ひいては世界を読み解くことでもある。
とりとめなく書きすぎた。僕のネット観は以上のようなものだ。さて、これからどうすべきか? ドゥルーズとガタリのいうノマド、ネグリとハートのいうマルチチュード、非中央集権的なオルタナSNSといった考えも、ネット論に限ってはなかなかイケているが、僕は「ホームページ」を作った。
個人の、少なくとも僕の個人的なサイトは、誰からも見られることがない。クロールされないものは存在しないも同然。ほとんど無意味で、滑稽で、狂っていて、風車に向かっていくドンキホーテのようですらある。
しかし、ホームページ作りほどネットにたいして内省的でいられる取り組みもない。今のネットが乱交パーティならば、個人ホームページ作りは愛を語る場なのだ。たまには羽目を外すのもいいが、人間そればかりで生きているわけでもないし、異常な行為の中毒になって「ネット棒」をふりかざし普通の人に襲いかかっているのが今のネットなのだ。