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無常について

2025-02-25

陰謀論にだまされる人がどのような属性かを詳細に調べるのは難しい。因子が多いし、統計手法上の様々な問題も重なる。今述べた「難しいよねという問題意識を統計にしてみたのが統計」ともいえるし、方法論的な面白さから新たな知見が得られるのは有意義だ。(僕はその内容や現実の問題を軽視しがちなので、こんな見解になる)
「社会背景が異なると陰謀論にだまされる属性も異なる可能性」を「日本では高学歴ほど陰謀論を信じる」などとクリックベイトすると、まるで違う解釈になる。あとはそのクリックベイトから始まる完全な間違いからデマが拡散されるだけだ。
その上でふんわり思ったのは、少し昔は科学誌の購読率が日本はアメリカの1/10ときいたことがある。なんとなくそう体感する。
鈴木大拙が、テニスンと芭蕉を比較したり、工業化は人間性の喪失みたいなことをいって、禅仏教についてや東西のスタイルの違いを説明したが、これは我々が科学音痴というより、我々の精神風土は無常を好むということだ。
僕は学問芸術にかんしてはかなりの欧米出羽守で、老荘も禅仏教も楢山節考もまったくピンとこず、まったく知らない国の神話をきくようなふしぎさすら感じる。そうした精神性が科学を批判するのをみると「電気やスマホの恩恵をうけていることに感謝しないのはカルト」くらいにしか思わない。にもかかわらず僕は常に無常を意識してしまうくらいには日本の精神風土に影響されている。ある意味、呪いでもあり、自我そのものかもしれない。
だから我々は科学の分析や方法論を、根柢ではあまり尊重せず、世界を認識するときそれと私の違いを確かめるためにそれをつかむのではなく、それと私に果たして違いはあるのだろうかと眺めてしまうのだ。それをつかもうとする私はいったい私なのか、それが私をつかもうとしているのではないか?
ただ僕のいう無常は、禅仏教というより、土着的な価値観が文明と混淆したり、学問的思想ではない通俗のほうをさし、むしろ日本人を一つの生物学的存在としてとらえたときに示される特質としての無常だろう。
ところで「ロゴス」は言葉や理性に属する。ヘロドトスによればゼウスですら運命の女神モイラに従属するという価値観もあった。一方、中国の「道(タオ)」は、鈴木大拙が引いた農夫のように実践的でもあり、むしろ言語化されない(否定神学とはまた異なるが)。また道は言葉としては動詞的であり、道を示すとか導く、語るといったニュアンスがある。カフカもこのへんを考えていただろう。
そして日本では、神(カミ)は「もののあはれ」を示す装置のようでもある。もののあはれの向こうには確かに「無常」が見えるのだが、ロゴスや道と比べるとそれらへのアプローチが異なる。黄泉の国からは脱出可能だし、霊はたまに現世に帰ってくる。ロゴスの論理的な世界観、道の実践によるその認識にたいして、もののあはれや無常はただ花を見る。
僕はその「見る」行為を、何かを感じ取るため、「得る」ためというより、たとえば芭蕉が花の前に、あるいは無音の音のそばに、「居る(在る)」ことを示すものと解釈する。
ロゴスや道の真理や秩序が到達できないものだと仮定する。なぜそう定義するかというと宇宙や死の運命は果てしないものだからである。我々は農耕社会や蒸気機関を作ることすら一人の人間からすれば途方もない時間がかかった。さらに進化の時間、地球の時間、宇宙の時間は長い。まあそこまで大仰にいわずとも、人は自分の来た道をふりかえるだけでずいぶん遠くへ来たものだと嘆息するものである。そのとき、人は花を見る。それが日本的な無常観だと僕は思う。
尤も、我々はすでに科学的な真理や秩序の道を歩みはじめたから、科学以前に立ち返るのは単にものを知らないにすぎない。僕はここまで無常にこだわりながらも、宇宙船に乗船し、地球を眺めながら、あの星はいったい無常なのか、なんともいいようのない気持ちになっているのである。


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