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クッキングパパ小論

2025-03-04

クッキングパパのキャラはみんな一癖ある。これは作者の人間愛が反映されていて、誰もが長所も短所もあり、悩みを抱えて生きているという人間観だ。
荒岩と虹子は男女の役割を少し反転させ、部下の田中はチャランポラン、夢子は不倫願望のあるヒロインなど、いずれもストーリーを動かすための典型的な設定だが、彼らは「こうあるべきイメージ」と現実のギャップに苦悩している。荒岩は強面で通しているからカミングアウトできないし、虹子は当時のバリキャリ女性の悩みで、女は子供を育てて一人前くらいにいう変なのがいた世の中だった。田中はともかく、夢子も不倫はよくないと自覚しているが気持ちは抑えられるわけではないし、女はクリスマスと同じ25歳で結婚を考えないといけなかったし、結婚して親を安心させたいが荒岩への気持ちはやまなかった。
基本的には、ちょっと個性の強いキャラの日常に料理がどーんと出てきて解決というパターンなのだが、たまに前述のようなせつない話、O・ヘンリーいわく「人生はすすり泣きで出来ている」かのようなエピソードやキャラが登場する。
誰だったか、不器用な男子社員が、女子社員にちょっと優しくされただけで結婚を申し込んでフラれてしまう回も良かった。今なら現実には厳重注意か処分、むしろストーカーになる悲しい可能性まである。しかし作品ではそういう話をしたいのではなく、男子社員の気持ちと現実とのギャップがテーマだ。彼は彼なりに真剣だったのである。彼は昭和や平成の悪癖や、自分の不器用さから、現実に適応できなかったのだ。
長期連載のため作風も変わり、マンガは動きがないと分かりづらくなる嫌いはあるため、前述の逸話もそうだが、たとえばまた田中と夢子の生き方などもネットだと誤解のある読み方を散見する。
田中が飲み歩くのは、あれはあれで実は社内外への慰労スキルだ。もし僕が東京のちょっと偉い人で田中が接待してくれたら、僕の性格や好みを分析されて、魚のうまい店を案内され、博多美人の店にもいって、おとなしい僕を失礼なくもりあげるために自分が脱いで踊って歌ってくれるだろう。嫌みなくバカを演じられるのは本当にバカでないとできなくもある。このへんは酒豪どうし虹子とも共通する、彼女は子供に申し訳なくて泣きながら仕事するほどの「仕事バカ」だ。そして最後は田中と僕のバカ二人で酔っ払いながら騒いだりラーメンを食べて帰る。仕事とはいえこんなにもてなしてくれる人はいないのでは。
そんな田中が後輩の慰労で飲み歩き、夜遅く帰る。日中、夢子や子供たちはお菓子を作っていた。節分の余った豆を見て、親子で遊んだことを思い出しながら、豆にいろいろまぶしたお菓子を作ったのだ。もうみんな眠っている。テーブルには田中の分の豆菓子が手紙とともに置かれている。という回があった。
これが、批判ありきのネットだと、時代錯誤と解釈されていた。確かに見ようによっては昭和の男性の妄想のようではある。ただそれは作品全体の設定を無視した見方であり、確かに現在の社会の、価値観が変化した状況に疲れた読者向けの、昭和平成への回帰的なファンタジーとしての一つの家庭像でもあるが、違うのだ。
そこには、女は家庭という時代にはバリキャリの虹子、共働きの時代には家庭に入った夢子という、社会からの疎外のテーマが一貫している。現実には第一に共働きしないと経済的余裕がない、第二には離婚したら女性は子供を抱えてどうやって生きていくかの重い問題があるから、もはや家庭に入りたくても入れなかったり、専業主婦を批判したりする時代だ。
クッキングパパは時々、人間の闇、社会の闇なんかにも言及する。虹子は産後うつで子供を突き落とそうと考えたし、田中のギャンブル依存は深刻だった。子供への愛情エピソードがあふれる中、梅田夫妻は子供がいないため肩身の狭さを感じたり、子供を望むせつない気持ちも見られる。
僕は作者の発言はあまり調べていないが、今の連載後期には、閉塞感を抱く時代ゆえにそうではない人間の一面を表現したいとか、たかがマンガなのでストーリーに料理がついて終わりでいいのだといった見解を覚えている。つまり、この謙遜は社会批判でもあり作品性の表明でもある。小説やマンガのスタイルでしか適切に表現できないものへの言及だ。作品で直接的にお気持ちを書き込むスタイルも別にあっていいのだが、それは僕からすると人間存在の複雑さから離れた空虚さを生み、ゆえに単なるイデオロギーありきのプロパガンダにとどまると思う。ミラン・クンデラも僕もオーウェルを評価しており僕も大好きだが、僕たちはああいうスタイルでいられる時代は過ぎ去ったのだ。
そんな感じで、クッキングパパやサザエさんやドラえもんを誤読してしまうと、実にもったいないと思う。


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