生成AI小説からの実存主義的文学観
(2025/03/16)
OpenAIの小説特化モデルで書かれたサドンフィクション(死語?)を読んでみた。恋人と別れた女がAIである僕に元カレの話をしたりして、やれやれ僕は返事するみたいな設定。確かに以前のモデルよりうまくなったような。これは生成AI技術の進歩と、また文学論への影響との2点において面白い。
ところで現在の生成AIは抽象的思考からの色々複雑な創作をするものではない。仮に小説作品をごく単純に定義してみよう、上述のようなあらすじを、何らかの意味や感情を生じさせるように、厳選された言語表現で作るものだ。さらにいうとプロット、キャラ、テーマ、世界観、文体で奥行きを出す。
小説の構造分析はさらに可能だがさておいて、作品は単独で受容されるというより、その作家あるいは彼が属する文学グループや思想や時代といった背景をもコンテクストに含めている。テクストは文学史の中でスペクトル的に体験されるといおうか。だからたとえば作家のスケッチの断片と称されるものを単独で見た場合、僕らにはなかなか判断がつかない。
また生成AIについてだが、一般には、大規模言語モデル(LLM)ではなく、抽象的思考が可能になりマザーコンピュータに近いSF的な「すごいAI」と考える傾向がある。この間違った前提から、さらに、そのすごいAIの創作ははたして人間の創作と同じか(それ以上か)とか、大きな話にしてしまい、その検証で参照されるのが単に生成AIのガチャ結果という、メチャクチャな議論になる。
これだと技術を正しく理解できない。今回の生成AI小説はあくまでも「ガチャ・テクスト」として捉えた上で、そのわりにはうまくできているから、すでに現段階で人間が書いたとだますことも可能だろう。これは芸術の受容や解釈論をさらに混沌とさせる一撃になるかもしれない。牧歌的な小説を、複雑怪奇なテクストとして扱うことで、文学はより深みと楽しみを増していくのである。
なにせ作者の死とか誤読とかを超えて、生成AIの小説はいわば確率論的であって、作者は本当に不在で、誤読も何も最初から何の意味も本質も与えられてはいない。もはや小説はロールシャッハテストのインクの染みである。
もちろんこうした試みや考えはすでに古くからあるが、さらに進めて、もはやテクストは読者が生成するテクストになっていく。すると、作者→テクスト→読者のヒエラルキーが反転し、読者→テクストの方向になるから、その先にあるのは固定的な実体的な作者というより、テクスト解釈によって作られる、(本来は不在の)作者のシミュラクラになるのだろう。そうなるとテクスト自体も本来は不在のテクストのシミュラクラになる。
そしてシミュラクラとしての作者は、読者の(いわば)集合無意識を反映した巨大な化け物になる。テクストも同様である。読者が無限に生成する確率論的なシミュラクラのテクストと作者が巨大な化け物になって、読者自身に襲いかかる。こうなると読者もまたシミュラクラ化し、読者は自分のドッペルゲンガーを見出すことになる。なんと恐ろしいことだろう! これは完全な空虚だ。
そこでは、読者と作者はいれかわり、テクストは驚くほどくだらない非文学的なものになっていく。焚書(!)のほうがまだテクストの価値をよく理解していたという点でマシであるかのような、PTAや中共の推薦図書のような、アフィ目的の推薦のような、そうしたイデオロギーや経済目的ですらない確率論的なテクストになったり、そもそも存在しないハルシネーション的なテクストになっていく。
そのような文学空間で作者と読者のスペクトル的な存在と化した僕は、まるで反科学陰謀論者のようにふるまう。もはやテクストは存在しない!(そこに存在しているのに…) もしかしたらこれは、社会の近代化がそれまでの宗教や価値観を崩し、ゆえに人はエデンを追われたアダムとイブのように、現代的な不安を生じさせたのと同じ流れになるのかもしれない。
この拙文で僕は途中から荒唐無稽な思考実験を楽しんできたが、これは日米の極右に煽動された反動的な炎上ムーブメントや、それに釣られて適当に喋り続けるネットのアルゴリズム的人間のような、現実の荒唐無稽さとシンクロしてもいる。
ようするに僕らは不安なのだ。
参考 小説特化モデルの出力した小説
https://x.com/sama/status/1899535387435086115