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テレビ的なるもの

2025-04-02

過激さで知られるお笑い芸人がいつもどおり女性俳優を追い回したら炎上した。それだけなら内容の是非はともかく出来事としては平凡ともいえるが、ちょっと考えてみた。
・テレビの話や芸能ネタをするのは「恥ずべきもの」という認識がなくなった。
テレビには大衆の啓蒙の役割もあったし(まあプロパガンダにもなるが)、まじめな番組も多いが、僕も昔のドリフをはじめお笑い番組、バラエティ、ワイドショーが大好きだった。あなたの知らない世界の効果音や女性の幽霊は怖かった(だいたいきれいな役者さんだから、美しさと恐ろしさが同居しているのは、僕の性的嗜好のほうの女性観に影響を与えたかもしれない)。ミッチーサッチー、ケンジとアンナ。たまにおっぱいもポロリしていた。
ただこれはあくまでも家の中で楽しみ家の中で完結するものだった。思えば昔のネットもそうだった。それはとても個人的な楽しみであり、タテマエにたいするホンネのほうであり、僕とテレビの二人による対話であった。
しかし湾岸戦争、震災、オウム真理教の報道になってくると、これはニュースであると同時にエンタメだった。その悲惨な内容を憤るというよりも、当時は情報化社会の極みを感じた。その情報の持つ「熱」は僕をひきつけたが、この熱はまさに今のネットの釣り煽りに内在するものと同じだ。
で、ネットは大衆化と商業化によって、テレビや芸能ネタ的なものが恥ずべき話題から、大の大人が一日中語るべき立派な話題に昇格していった。テレビや広告の規模が巨大なアメリカが政治とエンタメを融合させたように、日本でもテレビ的なものはくだらない個人の楽しみやせいぜい紅白のような一時的なハレだったのが日常的な「文化」に昇格した。だからテレビはコンプラが強化された。
このコンプラはタテマエは倫理の強化だが、ホンネはテレビ的な価値観の一般化にある。女性の俳優さんを女優と呼ぶのをためらうのはコンプラ的変化というより、AV女優さんをセクシー女優や艶系女優といいかえるように、もともと憚られていたものを今後は憚らないものだと宣言するための言い換えなのだ。
・テレビ的な論理が世論を侵食して化け物化していく
大変だ。テレビネタをはじめたはいいがあまり興味ないから飽きてきた。
まあ要は、テレビは悪いものであるから少し面白かったが(タブーへの侵犯、非日常)、それが大手を振って歩いたらただの暴力だ。ネットは小さな世界の出来事も増幅する。追われた俳優へのバッシングはお笑いの枠を超えているが、お笑いのネタに内在する暴力が溢れ出たということだ。つまらないギャグをやってウケなかったら観客を殴ってくるようなもので、これはこれで面白い場合もあるが、この面白さはタブーへの侵犯だから、結局そのタブーがどこまで許容されるかの匙加減による。
今はこの匙加減が崩れかけた状態だ。お笑い芸人への擁護は、その芸の評価やお笑い論を超えて、根底にはコンプラ的風潮への批判というイデオロギーがまぎれこんでいる。タブーの侵犯や社会風潮批判を芸に昇華させるはずが、釣り煽りのネット社会に呑み込まれて、芸に内在する暴力性を先鋭化させている。
そして分断である。いまどきシャレにならない加害性があるとみなすか、これこそが真のお笑い芸とみなすか。なぜ分断するかというと、たとえば女性をバカにしたものにフェミニストが苦情をいうのと同じように、芸をバカにしたものにネット・アクティビストが苦情をいっているからだ。もはや芸人ファンは芸を尊ぶファンではなくイデオロギーありきのアクティビストだ。彼らは一人ひとりのファンではなく、盲目的な個人が集団化してアルゴリズムによって動いている化け物なのである。


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