日本の宗教観について
昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか
(ツァラトゥストラかく語りき)
仏教離れのスレで仏教を説いている人が立正佼成会のソースを貼っていて笑った。あとはキリスト教の聖書の解釈がおかしかったり、儒教を誤解していたり、進化論を理解していなかった。
ネット掲示板は集合知に見えるけれど、実際は女の子が「盛る」のと似ている。女の子はすっぴんでも犬猫と同じでみんなかわいいけれど、それ以外はバカ以前にもはや化け物だ。
ところで日本は宗教よりも芸術や文化を好み、禅仏教も宗教の文脈ではなく精神性の文脈で受容されるように思う。貴族と知識階級が漢籍を下地にし、文学音楽美術を好み、仏教解釈も現世利益と美学の側面が強い。「わびさび」は「ほっこり」とか「ちいかわ」とあまり変わらない。宗教をめぐるトラブルは、役小角から日蓮、キリシタンまで基本的に権力的な闘争だ。むしろもうちょっと教義をまじめに論じてもいいのでは、教義がかわいそうだくらいまである。このへんも僕らが西欧的論理性と少し異なるところかも。
僕らはパンが聖体であってもグルテンでアレルギーを起こすなら別に抜いてかまわないというか、それに固執する精神性と論理性がない。お神酒やお手水で神学的議論をする人を見たことがない。むしろもう少しちゃんと儀式らしく手を清めたほうが(美学的に)いいのではないかまである。
僕らの教えはどれも喩え話で、まにうける人は与太郎扱いされる。しかも与太郎はバカゆえに愛されている。与太郎はバカのくせにたまにツッコミ役にもなってそれで僕らはまた笑ってしまう。僕らには二元論的思考をする習慣がないのかもしれない。
御神体も複製可能だったり、名簿だったり、謎だったり、そもそも論理的説明を求めない。お稲荷様は伏見だと眷属だが地域により狐そのものが稲荷神だ。
ところで僕らは震災被害の地をゆく僧の写真をみた。僕らは被害者の気持ちを想像しようとするが、そのあまりの大きさや深さに圧倒され、ただただ畏怖した。あの僧と僕らは完全に同じだった。
アダムとイブは神学的理由から追放されたが、イザナギは奥さん(黄泉)が怖かったから逃げた。神にたいする厳格な罪ゆえではない。ただただ畏怖である。僕はここに日本的なものを感じる。罪と罰ではなく、穢れと浄めである。倫理ではなく感覚である。
もちろん実際には自然災害といえど人為的に被害を減らすことも増やすこともできるので、僕らはいくらそれを畏怖していようと、それはそれ、これはこれ、日本人らしく現世利益を重んじるべきである。畏怖と科学は相反するものではない。虹のプリズムを理解していても虹は美しい。
ニーチェは二元論や弁証法に抵抗し、一種の力学を見出した。彼の考えは西欧の文脈にある。僕らはいくら西欧化しても、昼と夜にダイナミズムを見出さず、対象と同化するのを好む。むしろ、無常のダイナミズムというべきものがある。
(2025-04-15時点 未完😂)