笑わない者〈アジュラス〉について
僕はネットから「笑い」が消えたと考えている。僕のいう笑いの消失とは、ラブレー、クンデラ、ローティの流れでいう、アイロニーの不在とかぶるかもしれない。この意味において今のネットがつまらない。
SNSではクラスタや界隈といった集まりがあるが、それらを単なる興味の集合体ではなく、共通の価値観や規範を共有する(フーコー的な)ディスクール的空間として考えてみよう。このディスクール的空間は、世界の多義性を否定していく。クソリプとはまさに異なるディスクールどうしの衝突である。
ところで、JKの人気歌手tuki.ちゃんが唐突に金玉のイラストをアップした。これをラブレー的な祝祭としての価値の転倒として見てみよう。ならばそれにつくクソリプはまるでエーコの「薔薇の名前」の修道士のようである。修道士はいう。「笑いは、死や肉体の腐敗に極めて近い」と。なんという笑いの定義だろう!
このことをクンデラは「カーテン」でこう説明した。
「(……)笑わない者〈アジュラス〉が、どんな冗談にも冒涜を見出すのは、あらゆる笑いが冒涜そのものだからである」
「小説家と笑わない者〈アジュラス〉のあいだに平穏は望めない。
笑わない者〈アジュラス〉たちは神の笑い声を聞いたことがないから、彼らはこう確信している。
いわく、真理は自明である。
万人の考えは必然的に同じになる。
そして自分とは完全に自分が思うところの存在であると。
しかし、人間が「個人」として成立するのはまさに、真理の確実性と、他者との完全な合意を失うところにあるのである」
(※訳は英訳から原文原意を考慮しつつ僕の超意訳…)
アメリカリベラルの民主主義が、陰謀論者のナラティブに敗北したのも、SNSのアルゴリズムによって、それまでの「神聖性」が「政治的な正統性」に置き換わったからである。このような状況で振り回されるポリコレ棒やプロパガンダ棒は、それぞれのディスクールの規範をそれぞれの自己に強く内在化する装置として機能していく。
SNSのアルゴリズムは人間から感情を奪ってしまう。感情は個人の体験から生成されるものではなくなり、エンゲージメントのために生成されるようになるからだ。感情は数値化され、ただアルゴリズムによって評価される。そこでは感情は誰かのコピペにすぎない。疑似感情である。炎上とは疑似感情がコピペされていく現象なのである。
ネット的世界はすでにディストピアなのかもしれないな。ディスクールだけに😹(未完)