「お前は文学じゃない」と正義のナラティブ棒で殴られたのでアイロニーと幸せに暮らします
私は少女がドレスを脱ぐように考える
バタイユ
「SNSひぼう中傷“深刻な社会問題” 兵庫県が啓発動画」か。ネット倫理の感情化+行政介入=ふんわりした全体主義化ともいえる。
もちろん自由は大事、人権などの権利は大事なのだが、それを神聖なるものにしてしまうとアイロニーの精神に反する
と昨日僕は書いたが、明らかに悪意のある誹謗中傷や炎上目的の側が自由や人権と言いだすのはナチズムやマッカーシズムでも何でも歴史的にあること。だから僕は、小学校の啓発ポスター的な道徳教育を引き合いにして安直に人権の神聖化をする活動家にたいして不快感が強かったからそういった。
で、悪意の側は、アメリカでは何十年も前から極右思想や反科学のナラティブによって小金を稼いできたが、コロナ陰謀論でついにそれが本格始動できることに気づいたのだと思う。
最悪なのが、それに対する側もが「正義の神聖化と感情化」で対抗すること。こうなるとどう転んでも悪いほうに進むし、感情化=反理性であるから、フラット化した地平において、あとはナラティブのエンゲージメントに委ねられる。これはただ反ワクみたいなのを生産する装置になる。あとは地獄しかないよ。
これはまさにアイロニー的文学が死んでいる状況から必然的に生じたものだ。僕も小説の技法を研究したが、学校で教えるようになっちゃもうおしまいだよ。文学のテンプレ化! これほど不幸なものもない。だから僕は最近の作家が焼き直しをしているのを見ると本当に頭を抱える。チミたちは何がしたいんだ。
ナラティブもテンプレもぶっ壊せ! 今求められているのは破壊や脱構築のふりをした詐欺師や教条主義者になることではなく、真の破壊者=創造者になることである。振り回すべきはポリコレ棒やプロパガンダ棒ではなく、核爆弾のようなすべてを無に帰すほどの怒りの棒であるべきだ。
その表現には色々あると思うが、僕はわりとほっこり・まったりしているので、老荘や禅のようなアプローチもいいのかもしれない。
物語ほどすばらしいものもなくて、僕はいつもオウィディウスの転身物語や、はたまた、なろう系マンガを読んで、心を躍らせている。しかしそのナラティブほど恐ろしいものもない。ネロやヒトラー的な人物も、きっと物語に心を躍らせているのだ。
このような物語のナラティブでしかナラティブを真には批判しえない。それゆえに僕は文学という言葉を拡張して、このホームページで書いていること・書く行為も文学、僕そのものが文学であると概念化することによって、僕は文学に人間の生を取り戻そうと試みているのかもしれない。