絶望について
日本人が(欧米と比べて)助け合わない原因の一つに、都市や労働の構造的要因によって、合理的な損得勘定が作られてしまうという話を読んだ。
で、定言命法的に小さな親切をする、いわばカント的な西欧社会は、コロナ禍ではマスクやワクチン忌避など破滅的にふるまった。一方われわれのヘーゲル的社会の弁証法的な倫理は疫病の被害を最小限にしたが、帝国主義の影響だろうか、その弁証法は個人の自己実現には至らない。
民度とは何だろう。僕から見ると、社会形態の差異への単なるマウントだ。おとなしく列に並ぶのも度を越すと軍隊やカルトの規範であり、その民度なる概念はあやしいものだ。というか、西欧の議論に達していない段階において、暴力を正当化するための道具にした、奴隷道徳のルサンチマンというか権力のディスクールというか…。
で、日本社会というか日本的なものは、自分という個人がパブリックにつながらない。なぜなら僕らは「無常」につながるからだ。だから、人様や世間様に迷惑をかけずに自助するのはある程度までは有効に機能するけど、自己責任的な倫理が内面化された規範になっているから、有効に機能しなくなると破綻する。絶望である。しかも自己責任が内的に規範化されているから、自殺を選ぶのが合理的であるかのような大いなる錯覚を抱くのである。
まさに絶望の社会。無常の生である。さて、ここからどう生きるかとなると、超越や抵抗といった話になるが、僕はそれはインテリゲンチャのつまらない処世術にすぎないと思う。だからニーチェとかを誤読した、くだらない自己啓発書を散見するわけ。ニーチェは大衆のことなんて「畜群的人類」とした。フーコーはその家畜の群れを生権力が飼育しているとした。大衆がどう生きるかもクソもない、大衆は「民度」と叫ぶだけの化け物として作られた存在なのだから。
そこまでバカにするのはさすがにちょっとひどいがw、さらにひどいのは僕らは皆、インテリゲンチャと畜群のハイブリッドであることだ。虚栄心と怯懦をあわせもったキメラ。大衆批判とはその意味でまさに大衆的道徳、善悪の道徳にすぎないのである。
だから、たとえばネットでインテリぶろうとする僕らハイブリッド畜群は、自らの奴隷道徳に従って「民度棒」をふりまわすだけで、たとえばこの絶望の解決の一案であるニーチェ的な自己の超克など思いも至らずに、ただ無常としての絶望をうけいれ、この絶望すらもが「自分の絶望」ではなく社会的な絶望として認識するがゆえに、「世間様に迷惑」であると一日中叫びつづける。これが畜群的大衆の、ハイブリッド畜群としての僕らの進化の袋小路、サルトル的「出口なし」の人間の状況なのである。
僕らはメデューサを見ることに耐えられない。彼女は、世界に意味がないことを告げる者だから。僕らはペルセウスのように、絶望という呪いに立ち向かうには、この怪物を盾に映さないといけない。そこに映る怪物は僕たちとよく似ているから。