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《ポピュリズム・ポエム/ミラー・リプロダクション/アイデンティティ・フォールアウト》


《ポピュリズム・ポエム》

参政党のムチャクチャな公約が話題だ。この公約にあるのはロジックやスジの通った議論ではなく、釣り煽り炎上芸。最近のカルト右翼新党は、左翼野党よりひどいポピュリズムのポエムだ。参政党なんてたとえば反ワクで釣っていたけど選挙始まると反ワクやめた。これは日本の共産党が天皇制に媚びたり上層部がブルジョワジーになっているのを煮詰めた感じだ。これでも支持があるのだから、一部市民の経済格差による苦しみと恨みは相当だ。
これはもうポエムなのだ。僕も科学や論理や現実をベースにしながらわざと記号論的にズラして笑っているように。保守と共産思想をつぎはぎしたフランケンシュタイン先生のキメラ。キメラならまだ自己同一的だけど、それっぽい言葉や概念を適当に配置した前衛詩だ。
しかしカルト新党は(僕のいう)文学ではなく黙示録的なポエムだ。その違いは、社会や人間の分析や考察をせずに、何の迷いもないところ。信仰やアジテートならまだ文学にもなるが、ポエムの読者には何の信念もためらいもなく、行き場のない情念、情動にのみこまれて考えることを停止し、機械化してしまっている。
もはや人々は閉塞した社会を政治で変える幻想譚を読もうとしているのではなく、読者であることすら打ち捨てて、カルト新党のアルゴリズムを構成するエレメントやコンポーネントになり、そして機能的ノードとして還元されている。

《ミラー・リプロダクション》

少子化の話。機能主義的にいえば、昔は子供も大人と同じく機能や資源だったかもしれない。こんな感じの流れ。
・石器時代: 労働力(機能)
→古代国家〜近代: 家父長制の部品(資源)
→近代以降: 親のエゴ(象徴)
→現代: 嗜好品(オプション)
文明以前の環境は過酷だったが、大人は社会の成員であり、子供は成員の見習いになり、労働や社会への参加がそのまま教育や自己実現になった。
しかし家父長制や資本主義的な社会が、人を家畜化した。労働は自己疎外的になった。(ただマルクスは人間を本質主義にとらえていたかもしれない。僕がいいたいのは、労働が人間らしさを失ったのではなく、労働が価値化された点だ)
僕のいう人間の家畜化とは、人間は人間を管理する/されるべきであるという、国家の権力構造を個人の内部にまで規範化したものだ。だからもはや子供を作ることも生の衝動というより、権力と規範の管理下において、倫理や経済によって合理的な判断や正当化を要求されるものになった。子供は社会という権力構造の維持のために作るべきという物語が、倫理や経済のために子供を作るべきではないという鏡像的な物語になったのである。
子供は社会を映す鏡といい、子供の成功も個人の資質というより親の社会経済状況(SES)の影響が強いともいう。つまり子供とは社会が作る記号的な存在であり、存在の鏡像のようなものである。僕らは子供の頃から本来的な生を生きてはおらず、ただ鏡を見て鏡像の自分が動くのに合わせて本当の自分が動いていると思いこんでいるのである。
高所得化は国家の高コスト化に、高齢化は国家の持続不能化に、少子化は国家の再生産の自己否定になる。

《アイデンティティ・フォールアウト》

炉心融解の歌詞がまた話題になっていたので。
確かに、トカマク型核融合炉では、(現在の原発の)核分裂炉のような「核分裂反応を制御・維持する領域としての炉心」はない。比喩的にプラズマがコアではあるが…。
いわゆる青い光に包まれるようなイメージも、オープンプール型の原子炉で観察される水中チェレンコフ放射光からきている。核分裂炉の臨界事故で光ったという話は空気中の電離の発光だと思える。 またメルトダウンは炉心融解ではなく炉心溶融と表記する。融解は固体→液体(相転移)、溶融は加熱して→液体、またその状態…くらいの意。
歌詞は単によくある混同や間違いなので、科学に疎い場合は気にならないし、科学を知っていても単に間違いというだけで話が終わる。これは詩なので。
むしろ、いくつかのシニフィアンが自我や物理現象の意味の境界をメルトさせているものと解釈できる。つまりフロイト以降は自我にコアはない(本質主義ではなく流動的だったりスペクトル的)といった解釈が主流だが、その自我のゆらぎを核分裂反応あるいはまた核融合反応の実際の運用に伴う諸現象(たとえばプラズマの不安定性やチェレンコフ放射の美的表象)を混ぜて、自我(意味)の崩壊や逸脱を相転移に喩えているともいえる。
かなあwww

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