《エロス・タナトス/エートス・ロゴス》
エロス・タナトス
ヘイト発言で消えたなろう作家がいるらしい。作家が家にきたら娘を隠さないといけないという常識が社会から失われたというより、作家側に覚悟が足りないような気もする。僕は薪に寝て肝を舐めながら生きているので、その人も徹底しているのかと思ったらそうではないようだった。
ただ、作品と人間性はあまり関係がない。文学や哲学なんかは倫理的な人あるいは破壊的な人がやるわけではなく、倫理や破壊を問う人がやるものだ。ヘイトは問いではなく叩きであって、つまらないものだ。
民俗学でいう異人的なものやフロイトのいう「不気味なもの」がシミュラクラ化するとともに、異人/Unheimlichの役割はインターネット・パーソナリティに移ったのかもね。昔の異人が共同体に死や穢れ=意味の裂け目的なものを与えていたとすれば、今はそれが失われた。だから現代人は意味を自己消費し、意味をループさせている。不死の人なのである。そこには死がないから生もない。
僕たちにはもう何もない。モダンを前提としたポストモダンがあるのではなく、ただの無。それでも問うことが残されているから、公案よりひどい。
でも逆にいえば、社会契約以前に戻ったわけで、ヒャッハーできて楽しいじゃないか。ポルノで作家ごっこ最高じゃないか。何もないから何をしてもいいじゃないか。問おう。僕らは無を問おう。僕らはやっと人間性をとりもどしたのだ。
↑もう少しふくらませて、文学再起動宣言というタイトルで独立記事にしようと思ったが、動物病院にいって疲れたのでまたそのうちに。
エートス・ロゴス
🐣-🧪=?
ワイスの還元主義批判思考実験。絵文字にするとかわいいw
科学だと還元主義的アプローチも有用だけど、文学における還元主義的批評は、構造分析などの有用さよりも、意味を固定化させたり単に別理論の援用だったりして有害になりがちだ。
恋人と愛を語るとき「どうして私を好きなの?」ときかれて「性欲」と答えるようなもので、それはそれで面白いが、まず別れるだろう。
つまり還元主義的になると、たとえばカフカ作品の持つ解釈性はユダヤ教の解釈技法的だとなる。それは一つの見方として非常に面白いが、これは科学的な分析方法ではなくて、むしろカフカ作品から生じた「批評作品」といえる独立した性質と役割をもつのではないか。
もちろん文学作品が還元不可的な性質や、はたまた「意義」をもつとまでは言い切れない。ただ文学作品そのものが定義不能だったり曖昧であるがゆえに、科学的方法とはかなり相性が悪い。そもそも複雑なものを法則化しようと試みるときは謙虚であらねばならぬわけで。
ここでいう謙虚さとは厳密さのことだ。たとえば感染症におけるマスクの有用性を調べようとして、その感染症の社会での流行状況や、その因子による家庭内感染の影響、またマスクの使用状況による伝播率などなどを考慮しないで、調査対象が鼻マスクだらけのテキトーなサンプルが書いた日記のようなデータを用いておきながら、それがごく限定的な差異しかわからないことを認めず、「わかりやすさ」を求める社会的要請によって、思考を単純化させることは、厳密さがあるとはいえない。
(続く?)