文学と暴力について(文学の葬儀に捧げる弔辞)
風俗はコロナ給付金の対象外という最高裁の判決。これはなかなか難しい。
反対意見としては、法実証主義が職業差別をしていること。助けないけれど制度上の問題だから差別ではないとするお役所態度。
しかし肯定意見としては、公費の扱いを合理的とするなら司法は是とする。グレーゾーンにたいするリスク管理でもある。
これは法が権力のためにあるのか人民のためにあるのかの分岐点の一つでもある。風俗の黙認と支援対象外というイビツな構造は、ホモ・サケル的で、同和やハンセン病への差別も思い出す。(アガンベンは反ワクに落ちたが…)
さらに風俗は搾取、ホストクラブや地下アイドルも搾取があることも問題を多層的にしている。しかし搾取があるから救済せずは、セックスワーク従事者の権利やケアを無視している。売春の合法化もアリだが現実的にムリ。個人の救済は制度も福祉もあまり機能していない。つきつめると社会の矛盾や非合理を問うことになる。
このキツイ現実の構造は、一部の人だけを犠牲にしているのではなく、誰もが巻き込まれる制度の問題だ。さらに、「明日は我が身」の立場が、歪な思想によって、自分は庶民なのに権力の立場になったつもりで人を差別していく傾向も増えるだろう。勝ち組の既得権益に怒る庶民こそ、自らの既得権益を最も重視しているのだ。これは今のネットの怨嗟の典型である。
この前、左翼系の人が、極右思想や陰謀論にはまる人にたいして、彼らが抱える不安を思い、だからこそ対話や接続が必要であるとしていた。不安には共感を、だ。しかし僕はそこに不安から生じた暴力を見る。ここが彼らのアクティビズムと、僕の倫理の決定的な違いだろう。もちろん僕も共感と行動を否定するものではないのだけど、僕にとって共感や対話や接続とは、暴力にかんする批評行為でもあるかもしれない。つまり、
あなたの気持ちは僕には全くわからない。しかしあなたが暴力をふるったことだけはわかる。
ということなのだ。
赦しとは暴力の忘却や寛容ではなく、暴力の再生産を断ち切る倫理にしかないだろう。権力の暴力、庶民の暴力、弱者の暴力、政治の、法の、宗教の……、それぞれの暴力を左翼的に包摂するのは、それが本当なら立派だなあと思うけれど(アメリカリベラルの一部は本当にいい人が多くて尊敬している)、しかし結果がトランプだったのはギャグではないか。
僕は「いくら弱者といえども女叩きや外国人ヘイトに走ったらそれはもはや異常者だ」と以前にも書いた。あえていうなら、共感は左翼運動のルサンチマンだ。断絶を恐れてはいけないよ。そもそも人はほとんどわかりあえない。ほんの少しでもわかりあえると思った瞬間に、僕らの間には「制度」が入り込んできて、僕らを永遠の壁で分断していくのだ。
僕らの抱える苦しみや暴力はどこへ行けば解放され、赦されるのだろう? 宗教?(まさか) 僕らの得られなかった金は? 女は? トラウマは? 思い出は? 夢は? 愛は? 自尊心は? 僕らはキング牧師の語る夢を必死に追い求めているが、僕らの空っぽの心には、極右思想や他者への憎しみが水が染みるように入り込んでくる。
ここは本来、文学や思想が入るべき場所だったんだけどね。怒りを文学に昇華できなくなった時代。それは文学の教養の問題ではなくて、社会が文学たるものを忘れてしまったからだ。
また僕とアクティビズムの違いは、分析哲学や言語論的展開、モダニズム文学を経たかどうか……両者とも経ているはずなんだけどふしぎなほど解釈が異なる。僕は言語を胡乱なものと考えている。僕は暴力を不安からくる現象ではなく記号として捉えている。僕にはリベラリストやアクティビストは啓蒙主義、人間中心主義にしか見えない。だからあまりにも美しい。ルソーで涙しない者はいない。美しすぎるのだ。そこで利休信者は、せっかく掃除した庭にわざわざ枯れ葉を撒いたのだ。これは老荘や禅というよりディレッタンティズムに近いが、汚物を撒けば文学になるかもしれぬ。
ところで極右思想が撒いている汚物は、まさに文学の代替物なのだ。彼らが提供する暴力は意味になり、存在証明になり、リベラルのいう弱者への共感を転倒させて、正義を主張しながら共感を暴力に変えてしまう。だから左翼思想は彼らに届かない。
文学や哲学はやくにたたないものとみなされがちだし、僕も冗談半分でそう言う(それに今では僕らの知の大半は科学技術が占めているから。僕も聖典のような文学テキストを読み返す以外は、科学論文とマンガばかり読んでいる)。しかしふと見渡すと、文学哲学の不在を感じる。それは世界や人間の視座を失った状態であり、空虚にほかならない。
いったい僕らは「文学哲学は何のやくにもたたない」という嘘を、いつから信じてしまったのだろう? そういいながらも僕らはゲーテを読み、シェイクスピアを、ダンテを、オウィディウスを、ホメーロスを、ボードレールを、T・S・エリオットを、ウィリアム・ブレイクを読んでいたのに。
文学なき世界は愛なき世界だ。文学や愛の不在が問題なのではない。愛が語られなくなったのが問題で、そこに空虚が入り込んでくる。希望とは何か。文学とは形式が希望それ自体なのだから、文学で希望を語る必要がない。むしろ希望が語られるときそれは希望ではなく空虚になる。甘い言葉を用いるのは常に詐欺師や悪魔か、そうでなければ恋人の吐息がたまたま言語に似ていただけである。
──ここ数日、死刑囚の話が相次いでいた。僕はどうも猟奇殺人とかFBI捜査官とか犯罪心理学とか死刑囚へのジャーナリズム的なインタビューといったものがピンとこない。もちろんその役割を否定するものではないが、あれは現代人が死をセンセーショナルにして娯楽化しているだけで、そのうえへたすると話せばわかるとでも思っている可能性があるし、啓蒙主義の残滓が甘っちょろい左翼運動と結びついているように思える。どうりで僕と相性が悪いわけである。彼らは死を見ていない。暴力を見ていない。ようするに人間を見ていないのだ。僕の目に映るのはこの社会における文学の不在のみである。
この小稿は、文学の葬儀で読み上げられる弔辞だ。誰もいない斎場で僕は佇む。死者も参列者も不在の葬儀だ。斎場には屋根がない。頭上では不気味な鳥が飛び交い、彼らだけがこの葬儀を見守っている。ついばむものはまだあるのだろうか。鳥の一匹がどこからか葉をくわえてきて、葉にはマタイ福音書の改変された一節が刻まれていた。
「私はこの世界に平和ではなく分裂をもたらすためにきた」
(マタイ10-34)