語りを取り戻すために──ヴィトゲンシュタイン A Go Go!
ある知り合いは普通の人なのだが、たまーにネットやメディアの誤情報に影響されてしまう気がする。
以前も「女子トイレにトランス女性が入ると犯罪が懸念されるのでは」(そんな近所で見たことのないごく少数の人よりも僕のような変態おじの異常な多さや、社会の脆弱な構造を心配せよ)、「外国人が増えると治安が心配」(そんなことより日本系日本人の犯罪者の圧倒的な多さや、社会の歪みを心配せよ)といった典型的な極右プロパガンダのレトリックを受け入れていた。
今日は、中国と日本のハーフの20代女子を自称する垢が、「中共と中国人は違うとよく言いますが、私はルーツ的に中国にくわしいからわかりますが、中国人は性格が悪いです」「私はハーフですが日本人だと思っています。生まれで差別しないでください」「中国・中国人にだまされている人が増えたので、見かねて、自分のハーフをカミングアウトしました」(以上は発言の主旨を僕が要約)なんて人をリポストしていた。
これは明らかに法輪功だろう。法輪功でなくても何かカルト的な、これまた典型的なプロパガンダ言説にすぎない。なおThreads垢は選挙を控えた6月に作られたばかり、インスタは投稿なし(笑)。
こんなものに釣られるバカがいるわけねーだろ… 知り合いにいたぁ!www😭
いや、やばいね。これは反ワク陰謀論のあまりの影響の強さに、ほとんどの人が多少そのプロパガンダを受け入れてしまった流れと同じだ。今もわりと多くの人は、決して反ワクではないが、COVID-19ワクチンや感染症対策のマスクなどの有用性を、正しく理解できていないように。
僕は誤解を恐れずにいえば、現実社会や人間なんてクソどうでもいい。目の前で子供が死ぬとき文学は? やかましいわ、それがまずプロパガンダだ! そのレトリックがいかなるものか考えないで文学もクソもあるか、出直してこい! なんだよ。これくらいの観点がないとだまされてしまう。だからみんな知性も常識も人の心もあるのに、いつのまにか極右プロパガンダやオウムみたいなカルトにだまされてしまう。
これはたぶん、僕らが好きだった90〜2000年代の「ネットの語り」が、アルゴリズムとプロパガンダによって変質し、いつでも極右やカルトに接続可能になってしまったのが不幸なのだ。日本においては、その大きな始まり(転換期)が、10年代の嫌韓ネトウヨブームであり、ネットの釣り煽りの炎上ビジネスである。安倍ちゃんあぼーん😭以降の20年代は、反ワク、極右が台頭してきた。
そういえば参政党の勢いが強いらしいが(なお僕は詳しくない、僕もアフィスレに釣られているだけw)、本当に強いならば、参政党の支持や思想とはもはや極右ですらないのである。あれは、大衆の苦しみが、政策や思想によって表現されたのではなく、アルゴリズムやプロパガンダの「語りの形式」に同化したものだ。あの支持層はN党、暇空、石丸、国民民主、ほか有象無象の政治ゴロやインターネットパーソナリティなんかを、ドクターショッピングやアニマルホーダー風に病んだ感じで、アイドルの人気投票のように支持している。
だから彼らは、勢いのある強いほうについていく。乗るしかないこのビッグウェーブ。彼らは白痴なのではなく、ただ物の見方が狭いのだ。そしてパチや馬券のような公営(!)ギャンブルにハマる者と似ていて、パチンカスも決して愚鈍ではないどころか確率の理解は一般よりあるのではないか。ではなぜあんなテラ銭はとられるし負けるし割に合わないものをやるかというと、他にやることがないからである。視野の狭さと通じる。環境などの因子が、彼の行動を確率論的に決めている。
SNSをやっている知り合いを僕が常に心配するのはそこだ。バカをだます手札の一つに、自分の頭で考える、自分の言葉でいうといったものがある。これは「受け売りではない、自分の“中”から噴き出る、血や肉のような言葉」といったニュアンスだ。一見いいことのように思える。他人がそういったら、まあ子供か子供みたいな人々だからと思って、僕はやさしく頷いただろう。数年前までは。
ところがこれ、全然よくない。現実に反ワクらが用いる文脈は、一般常識や科学的コンセンサスを、非科学的な方法や理屈で(!)否定するための方便になっている。「自分で考える」という言葉を受け売りで使っているだけなのである。ここまで滑稽だと話は一切通じなくなる。その可笑しさはズレから生じており、ズレを軌道修正するにはあまりにも時間が経ちすぎた。
自分の血肉のような言葉というのも幻想にすぎない。僕もなんとなくわかるそうした情熱にあふれているのだけど、僕らはヴィトゲンシュタイン以降に生きている。私的言語は成立しない。言語ゲームに依存している。
「科学論文を読んでよく考えました(YouTubeを見ました、そこで覚えた2、3の言葉をコピペしています)」(笑)
これ。これが視野の狭さ。世界の視座の無さ。だから科学のゲームの話(反証可能性やコンセンサス)は通じない。このズレは戻らない。
100年たっても言語ゲームネタに戻ってしまう。なんということだろう。だから僕は血肉の言葉という幻想ではなく、「語り」を取り戻さないといけないという、謎の使命感にあふれているのだ。読もう! 文学!