トップページへ戻る

ごんぎつねと文学の死

今の子供に読解力がない、自分で考えて表現する能力がないといった記事を読んだ(例のごんぎつね本の宣伝だ)。まあそうかもしれないが、よく読んだら著者の主張のほうが奇妙に思えてきた。
女衆がよそいきの着物をきて、かまどで火をおこして、何かぐずぐず煮ている場面。
ここで何を煮ているのかと問うたらしいのだが…。
別に何だっていいじゃないかw 子供に時代や文化や文脈を「考えさせてやる」だなんて、したり顔できくほうが悪いし、きいておきながら望まない回答がくると怒るのは最悪の教育であろう。
記事に登場する校長いわく、母親を煮ていると答えるのはあまりにも常識がないという。うーん、そんなに突飛な連想だろうか? 子供が一般に読むであろう童話やファンタジー、ホラー、ミステリー、ユーモア作品にはナンセンスや暴力の要素もあるから連想は容易かもしれない。それに、あえて「何を煮たのか」と問うことで、このシーンだけがクローズアップされてしまう。今の子供には昭和初期の葬式の風景は中世くらいに遠いので、このシーンだけ読めば江戸川乱歩風の異常な世界観が作品内では通用しているのだと考えられなくもない。教諭の望む回答を出すためには、引っ掛け問題にも似て、想像力とはまたベクトルの異なる観点が必要になる。
……ただ僕からすると、ここで何を煮ていたかという設問自体がちょっと異常に思える。僕も著者と同じような感慨を著者自身に抱く。この設問をした者は文学の素養がないというより、教育の本質すら見誤っているとすら思える。
また校長いわく、今の子供は、理科で生態系を学んでも命の尊さに結びつけて考えられないだとか、戦争の歴史を学んでも人の苦しみを(以下同)とも述べている。一見、いいことをいっているようで、これは戦前教育や教育勅語の構造とどこが違うのか。
天皇の絶対的な尊さを学べ→命の絶対的な尊さを学べ
五常を修めよ→文科省の定めた倫理道徳を内面化せよ
国のために特攻せよ→他者のために共感せよ
これは、フーコーさんもどんびきのディストピア教育だとしか僕には思えない。一見いいことのように聞こえるのが一番怖い。
そもそも新美南吉はそのような教育を批判していた。新美は僕と同じで近代的自我の問題意識のある文学者だ。僕らにとって戦前教育もその流れをくむ現代の共感ポルノも、価値観のおしつけによる思考停止でしかない。
僕たちはいってみれば「わからないもの」「語り得ないもの」を書こうとしている。ごんちゃんがかわいそう? 人間がかわいそう? 共感? わかりあえる? 何それw 僕らはそんなことを一度も話したことがないのだ。そもそも教育者を称する君たちは文学を読んだことがあるの? いったい何を読んできたの? 教育勅語? ポルノ? ああ、教育とは、読むことはできても読む価値のあるものがわからない人間を大量に作るだけだった(G・M・トレベリアンを意訳)。
だから近現代の文学は、日本的な教育とは実に相性が悪い。欧米と同じテーマを抱えながらも文学が育たなかった要因ですらあるかもしれない。日本において教えられた近代的自我とは、考えることではなく、空気を読むことでしかないではないか。
何を煮ているのか問う者たちが煮ていたのは、人間の想像力や、考える主体や、文学そのものだったのだ。


トップページへ戻る