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猫は話が通じない 〜他者と倫理について

起きると猫がやってきてトイレに先導してくる。僕は用を足しながら彼をなでる。寝ぼけ眼のままタバコを吸う。今朝は足元に猫草を置いていた。猫が草をむさぼる。草の袋は重い陶器に詰められており、これは猫が草をくわえて引っぱっても転がらないためのものだ。だがこの猫は大きくて力が強い。草を食むたびにゴン、ゴンと陶器が引っぱられる。敏捷で狙いも正確なハンターの牙には細菌という毒が塗られているが、さらに噛む力も強いのだ。
僕たちは生態系の地図が異なるから、彼ら猫のことを無邪気な生き物のように錯覚しがちだが、本当は一部の熊や蜂くらいに恐ろしい生き物だ。しかもあまり話が通じない。
猫も母系の集団を構成したり、ほかの猫たちとテリトリーを複雑に共有するなど集団生活に適応しているから(たとえば猫の集会はコミュニケーションだとも考えられている)、よく誤解されているように単独で生きる性質なのではない。ただ、彼らの生業が単独行動による狩りなので、ヒトや犬のようなメンタリティとは異なる可能性が高い。
巣穴の前で何時間も待ちつづけても耐えられる。獲物になるサイズの何かが動くだけで体が反応し、心は100%それに集中しているかのようだ。やめろといっても飼い主のいうことは耳に入らない。「どいてお兄ちゃん、そいつ殺せない」を思い出す。犬も、ドッグランに猪が迷い込んだらしきとき、集団で狩りをするような形になった動画を見たことがあるが、本来の行動をとることができて犬も楽しかったのだろう。
猫は人間社会で飼育下にあっても猫本来の行動をとっているように見える。周囲をサーチし、あやしいと思ったら反応し、獲物や敵がいると仮想してシミュレーション行動をしている。何もなくても音がしただけでスイッチが入る。普段よく寝ているのは狩りの体力を温存するためだ。猫たちの生理学的な身体や精神の仕組みは狩りや繁殖などの生存のために特化しており、家畜化されてもその性質をほとんど失わなかったのだ。
だから基本的に猫は人の話をきかない。理解する能力はあるが、ヒトや犬のように集団で狩りをするために協働するベクトルではない。動物の知性とはヒトのように言語的なものではなく、視える世界も異なる。たとえばコウモリがエコーロケーションで空間を認識する世界を、僕らは説明はできても世界を同じように認識することはできない。
外に出入り自由な飼い方が多かった頃、外で自分の猫と出会うと、まるで他人のように飼い主を警戒することがあったという。その理由は複合的でもあると思うが、たとえば外はその猫のテリトリーであり、猫のテリトリーは境界で区切られているというよりも円が重なるように部分的に共有されている。自分の家は自分および一緒に飼われている猫たちの強いテリトリーであり、家の庭も強いテリトリーだ。だから庭によその猫がやってきたら彼らはテリトリーを守るために戦うことがある。庭を出た周辺は、近所の飼い猫と共有するテリトリーになる。その地域の猫たちの公共空間だともいえる。糞尿や爪とぎのマーキングによってテリトリーの情報を示すことで、不要な争いを避けている。猫の集会も、テリトリーを共有する近所の猫たちの情報交換と、争いを避けるための手段とも考えられている。無断でテリトリーを侵害したら、狩りや繁殖などの生存にかかわるため争いに発展することがあり、争いは死に直結するため可能な限り避けなければならないからだ。
だから家の外のような自宅より弱いテリトリーでは警戒心が強くなっている可能性があるので、仮に飼い主をだいたい認識できたとしても、確実に同定したと納得がいくまで、また周囲の安全を確認するなどの保証がないと、飼い主とコミュニケーションをとる余裕がないのだろう。
猫は、そうした殺伐とした世界に生きている。ヒトもあまり変わらないとも思えるが、家から出たら猛毒を塗ったサバイバルナイフを誰もが所有していて、地元の友達なら挨拶するが、見知らぬやつがいたら「ガンつけただろ」「どこ中よ?」と張り合い、たまに本当に刺しあう世界は一般的ではないし、僕らには耐えられないだろう。
僕らはペットの動物は食べないし殺さないし、彼らの権利を尊重したり、むしろそのへんの人間よりもはるかに大事にしている。僕は家族運がよくなかったから家族という言葉を快く思えないため、ペットは家族というよりも、宗教的な信念と情動による倫理や価値の象徴として自分の猫を捉えている。家族は分裂したり憎しみ合ったりすることもあるが、自分の猫を憎むことはありえないだろう。聖書の神ですら理不尽なこの世界では恨まれたり疑問を抱かれたりする(もちろんそれは神の論理の超越性にたいして人間の浅知恵がどれほどのものかという喩え話だが)。
日々、猫につきまとわれ、ひたすら鬱陶しく、金も手間もかかり、そのうえ俺の話なんか一切きいちゃいねえと僕は嘆く。しかもそのうち病気になって死んでしまう。勝手にやってきて、保護しろと迫り、勝手に死んでいく。こんな奇妙な生き物はほかにいない。おそらく自分が育てたり思いのある子供なら小さいうちは同じように愛おしいのだろうが、人間どうしだと親子すらそのうち憎み合うことが多いから、僕はペットを子供に喩えるのも適切ではないと思う。親なんてのはネットを見て陰謀論に洗脳されるようなそのへんのバカの老害だったり、子供もその予備軍でしかないとすれば、愛情の根拠は家族という制度にしかない。その人自体を愛するのではなく制度を愛し、制度に依存しており、自我のある人間ではなくて制度の機能や要素にすぎないともいえる。
ところが猫はそうした人間の不毛な関係性という制度の外部にいる。猫はあまり話が通じない。視る世界が違うからだ。そのことを人間中心的な視点から、猫を劣った人間≒子供として解釈しがちだが、僕らは全く違う生き物なのだ。
猫の家畜化については、穀物の鼠害に伴いリビアヤマネコとヒトが生活圏を共有して、そこからヒトを怖がらない猫や、ヒトの赤子と近い音域で鳴いて報酬系を刺激する猫にたいして選択圧がかかり、今のイエネコになったといえる。猫の分布がここまで広がったのは、喩えるなら猫はアニメの女の子で、萌えの記号の集大成であり、猫好きはオタクの豚だ。オタクはkawaiiの記号を理解できるから、猫が家畜として世界に伝播した。猫は原種の時点で幼形成熟的に見える。それが幼子のように無邪気なふるまいをする。鳴き声は赤子に近い。あまり思い通りに行動しないが、エサをやるときだけは姿を現わす。こうした性質が報酬系への刺激になる。
さらに人類は動物をトーテミズム、アニミズムとして解釈していた。猫は、そうした象徴の「量産的なキャラ」として機能するだろう。これは身近な家畜動物でも同じことだが、有用な家畜と違ってたまに鼠をとるくらいの生き物が家畜化しペット化した理由には、こうした進化や文化まで渡る要因があるのだろう。
ところで猫は、花鳥風月の距離感を超えてきたのかもしれない。リビアヤマネコの天敵や競合動物には、ワシなどの猛禽類やジャッカルのようなワンコはいたが、一方的に捕食される関係ではない。蛇なんかも危険だが小型動物にすぎない。天敵というほどではない。山猫はトップクラスの小さな捕食者で、単独で狩りをするから、メンタルは強いといえる。気の強い猫は、大きな動物にも向かっていくし、牧場の猫は馬と仲良くなって乗せてもらっている。
まとめると、天敵がないから他の小動物ほど動物を怖がらない。狩りやテリトリー確保のために心身が進化した副産物として、わりと気が強くて、好奇心も強い。だから山猫は、そこそこ大きな動物であるヒトもあまり恐れなかったのだろう。
猫のその「バグった距離感」が、人間にとって心地よい可能性がある。人間にとって他の人間は味方か敵、未確定、どちらかといえば味方か敵。他の動物は家畜、敵、素材、自然といった明確な距離がある。僕らは因果関係を推論して答えを出さないと不安になる生き物だ。昨日は大丈夫だったから今日も大丈夫に違いないとか。しかし僕らは形式論理学的に厳密な答えを求めているわけではなく、生存に必要となる納得するための物語を求めているのだ。算数の式としての1+1=2をいちいち疑う人はいないが、人の不実を疑うことはしょっちゅうだ。人間関係や自然現象は複雑だから絶対はないし、だいたい悪いことが起きる。たとえば僕らが得たと思い込んだ、永遠の愛や忠誠の根拠は、性行為だったり妄想だったりする。だから人は疑うようになる。大した根拠もないのに早合点して、疑い、運命や世界を呪う。そのくせ人前ではいい格好をする、なぜならヒトは社会的動物だから。こうして人間の関係性や心理は、僕からすると薄気味の悪いものになっていく。さらに僕らの生活は苦しく、危険にあふれ、家畜のような生を受け入れるしかない。そのために物語が必要になる。人生はそれでも意味や価値があるだとか、自らを洗脳しなくては生きていけない。その物語は何の根拠もない妄想だから、また疑う。僕らは疲れはててしまい、神だとか、無常だとか、人生の悲哀といったものにたどりつく。そしてそのうち死ぬ。なんということだろう。これほど不愉快になる小説やゲームは、ついぞ見たことがない。
と、少しペシミスティックすぎるが、まあ人生には嫌なことがままあるものだ。そんな僕らの前に、距離感のバグった猫がやってくる。なでようとすると逃げられるし、動物はそういうものかと思えば膝にのってきて熟睡したりする。よくわからない。心理学や行動学的な説明は可能だが、僕らは正しい答えではなく物語を求めている。僕らは猫に食べ物や住居を与えるが、猫がヒトに与えるのは、人間とは違う世界の在り方なのだ。それは宗教でいえば人間を超越した神の論理であり、人間社会でいえば広い世界を知ることと同義だ。
このあたりがトーテミズムやアニミズムを超えて、現代のネットでミーム化した象徴としての猫の、愛される所以であろう。猫は僕らの抱えるモヤモヤをはらう風であり、僕らもまた猫にとっては別の世界の友人なのだ。


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