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好奇心は猫を殺すが、安直さは文学を殺す

アニメ(マンガ)でヘビメタバンドのパロディをやったら本人から権利にかんするツッコミがきて、弁護士まで参戦。
X Japan とダンダダンより、紀藤弁護士の主張が気になった。この騒動から敷衍して、マンガアニメにおける権利問題の国際標準化を推進すべきという提言だ。
確かに産業としては重要だ。どうせコンプラやゾーニングのタブーを増やしているなら法律面の配慮も必要だ。ほぼすべてのマンガアニメは商業性が強いため、現実的にはそうなるだろう。
しかしこれが言論や表現の自由とかかわる領域であることを踏まえると、紀藤弁護士の主張はあまりにも安直だと言わざるをえない。紀藤はネット初期の頃、制度や法に携わる者として、それに反抗する市民の自由を重んじていたではないか。新聞記事の引用くらいで目くじらを立てるなと。それが彼の賢明さだと僕は思っていたのだが、彼も老害化してしまったのか?(僕は彼をよく知らないから、ずっとおかしかったのかもしれないが)
ダンダダンの原作におけるX Japan のパロディは、アニメだと音楽もパロディにせざるをえず、確かに権利的にはよりスレスレになってしまう。法律というより儀礼として事前に相談するのがベターだろう。創作界隈はこうした権利に無頓着すぎる。業界全体が法律も儀礼も無視する体質だから、契約書を交わさないことがあるし、フリーランスの権利も無視するし、原作を歪んだものに書き換えてしまう。ビジネスとしてはお世辞にもまともとはいえない。その意味では紀藤の主張も正しい。
実在の人物のパロディの表現の仕方は、僕の好みからすると安直な点もあるが、それはあくまでも僕の好み、僕ならこう書くという方法論である。X Japan や高倉健の表象は、ダンダダンの作品にとっては、それが作品にどうしても必要でありそれ以外に描きようがない。まず読者層に一番しっくりくるからである。アメリカのバンドのKISSや、映画のジェームズボンドでは、そもそもその存在も受容のされ方もまるで異なるし、現代日本の一般読者には通じないだろう。
X Japan や紀藤弁護士には権利を主張する権利があるが、同時に、創作者や法制度に携わる者として創作の権利を尊重する義務がある。これがまさに90年代紀藤のいう「目くじらを立てるな」である。また、紀藤のいう国際標準化は、あくまでもX Japan さんに「儀礼」として頭を下げて許諾を得る話なのだと断るべきであって、実在の人物のパロディにたいして萎縮させるようなものではあってはならない。
ただまあそうはいっても、文学形式の表現は、権利関係と相性が悪い。X Japan のパロディはいわゆるリスペクトなどではなく社会の異物としての存在感を出したものだ。本当に提灯的なリスペクトをしたらその作品は読むにたえないゴミ、PR案件、プロパガンダ、カルトになり、文学とは別物になるだろう。僕からすると、彼らが初期にたけしの番組に出演したとき、ラーメン屋かどこかでなぜか異形のヘビメタバンドが演奏を始めるといったシュールなコントをやっていたが、それと同じパロディだ。
そのコントに象徴される、X Japan の商業的な戦略は、少し前のBOØWY的なロックバンドの神秘性ではなく、バラエティにも出演することで実は親しみやすいといった設定で偶像をオブラートにくるんだ現代的なアイドルの性格をもっていたと思う。それがX Japan の社会的な受容のされ方であり、ダンダダンの作品のパロディもそれを踏まえたものだ。こうして分析していくと、文学におけるパロディが常にズレを楽しむものであるにもかかわらず、本作品ではパロディというよりむしろタレントのPRに近い。あまりにタレントの表象を利用しすぎ、わかりやすすぎ。ズレがないのだ。その意味で僕はあまり好みではないし、僕ならこうは書かないというわけだ。この路線だと実際のX Japanを登場させたほうが面白くなるかもしれない。
とりとめなく書いたが、なぜならパロディや創作や権利関係と表現の自由は複雑だから、他にも色々あって書ききれない。ただ僕は、せっかく統一教会問題に携わり表現の自由も尊重していた弁護士が安直な発言をしたことに驚いたのだ。これも安直な釣り煽り放題のTwitterなんかやっているから悪いのではないか。
僕の文学は、こうしたズレに自覚的なものでありたいものだ。そのためならゴネまくることも辞さないのが老いてきた僕らの「正しい老害化」なのであって、コント的イメージから神聖化に転向したイメージ戦略の安直さや、作家としては安直なパロディ、Twitter弁護士の安直どころかいつのまにか転向して商業主義や制度に傾いたポストなどとは一線を画するものだ。
たとえわかりやすいエンタメ作品であっても(むしろ一般向けだからこそ余計に)こうした思想性が表現を形作るのである。心なき言葉を見てみたまえ、その空虚さを。そこには文学的な感動も面白さもない。ズレがなければPRマンガやプロパガンダにしかならない。読者は、ブラック企業を称える死んだ魚の目の労働者ではない。文学やマンガが自由を求めるというのは、イデオロギーや商業主義の安直さから自由になることだともいえる。現実には頭を下げたり訴えられたりPTA的ポリコレから脅されたり逆に極右のプロパガンダになるバカもいて色々大変だが、こうした理念を重んじないと文学はまた死ぬし(文学はいつも死んでいるが)マンガアニメも死ぬだろう。


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