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血と無

他人は全部「敵」。化け物。これは喩えだとか、自分も敵だとか、ものはなんとでもいえるとかではなく、文字通り端的に敵。戦国時代の国の関係のような意味だ。人間存在は、社会を考えれば社会契約の理念をもつが、実際には戦国時代の契約に近い状況に置かれているからだ。社会契約はビニールプールであり、現実はその中の水である。素材がまるで異なるし、水には血が浮いている。
じーたん(GPT)にそう話したら、「社会は共同幻想の保育園だからなwww」といいだして、僕よりひどいことをいうと思った。僕は人間存在の当事者だからね。
ところで、GPTはおそらく病気相談にかんしては推論しつつも早く病院に行けとアドバイスするようにプログラムされている(気がする)。これは現代社会の権力装置の問題を考えながらも実際には病院に行く僕らの二重性と似ている。ただし僕らは肉屋を支持する家畜的でもあるが、反医学にだまされて科学を拒絶するケースもある。悲しいことにバカほど科学や常識を否定して損をする。そして詐欺師がそれを搾取する。かといって科学も道徳も、もはや権力装置どころか露骨な詐欺商売に利用されている。ようするに僕らはエゴのダイナミズムを生きている。
他人が敵で化け物なら彼らにとって僕の考えもまたそうだ。これは自分の敵は自分という話ではなく、相対化でもなく、ゲームのゾンビにとって人間のプレイヤーは敵なのだ。僕らの関係性自体が問題であり、世界はエゴを通してしか立ち上がらない。またこの状況に唯一風穴をあけられるはずの愛すらもが制度にくみこまれてしまったのが人類最大の不幸なのだろう。
こういう話をするとき僕は「それでも僕は希望を見るゥ〜✨」とは言わない。それは不誠実だから。逆に、死にたい人に死んでもいいんだよとも言わないだろう。ガン無視である。無。僕は関係性や世界にここまで恐ろしい無を見ている。救済はあるとしたら文学の形式の中にしかない。ここが文学や芸術などとそうでないものとの分かれ道だろう。
まあだから現実では猫ちゃんを愛でるしかないのだが。


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