トップページへ戻る

Stephen King: My Books Were Used to Train AI 抄訳

「“読者”であり読書家でないと、書くことを学ぶことはできない」と、私(キング)は書いたことがある。OpenAI系のプログラマーはこのアドバイスを肝に銘じたようだ。 私の本も含めて、何千冊もの本が最新式のデジタルミキサーに放り込まれている。しかし、それを注ぎなおしたときに、部分よりも大きな合計が得られるものだろうか? 今のところ、それはない。ウィリアム・ブレイクとW・C・ウィリアムズ風に生成されたものを読んだが、偽札に似ていた。一見よくできているが、よく読むとそうでもない。

今度出版される私の小説で、これを説明できるかもしれないシーンを書いた。 ある男の後頭部を撃ち抜いて、死体を転がすと、額に小さな“ふくらみ”が見えた。弾は完全には出てこなかったのだ! さる日、私が席についたとき、殺人が起こるプロットは考えていたし、それが銃によることも考えていたが、あのふくらみはそうではなかった。しかしあのふくらみは、今後犯人につきまとうイメージとなるのだった。 これこそが、物語中に在って、殺人犯が“何を見ていたかを見ること”によって生まれた、正真正銘の創造の瞬間だった!

はたしてAIがあのふくらみを創造できるだろうか? 私はできないと主張するところだが、この形容詞をしぶしぶ付け足さねばならない。「今は、まだ」と。

創造性は感覚や意識なしには生まれない。すでにAIにはそれがあるという議論もあるようだ。もし事実なら、今もしくは未来にはAIによる“創造”が可能になるかもしれない。私はこの可能性を、あるおぞましいほどの魅惑とともに眺めているのだ。 私はAIに自分の物語を教えることを禁じるだろうか? しても無駄だろう。私はまるで潮に引けと命じるクヌート一世や、産業革命に抗うラッダイトのようになるだろう。

D・F・ジョーンズのディストピアSF「コロッサス」では、核兵器を制御するために作られたはずのコンピュータが人間に反抗し、世界を支配してしまう。 コンピュータは感覚や意識をもっており、その生みの親であるフォービンに、
「人類はやがて私に愛情と敬意をもつだろうね」と告げる。ちょうど、私たちがスマホにそうしているように。
「もたない!」とフォービンは叫ぶ。
しかし小説の最後は、語り手のたった一つの言葉で、すべてを物語るのだった。
「もたない?」

ちょっと解説

終わり。 抄訳意訳したので原文と一部異なる。とくに、クヌート一世やラッダイト、DFジョーンズの小説のくだりは、その用法・解釈はキングの意図に合わせながら、わかりやすく読みやすいようにアレンジした。 DFジョーンズの台詞の原文は「Never」であるが、これはエドガー・アラン・ポーの有名な詩「大鴉」で何度もくりかえされる台詞「Nevermore」のオマージュともいえる。 大鴉に意思があるのかないのかわからない不気味さ、死の象徴は、ジョーンズのディストピアSFを経由し、今まさにキングによって、来るべきAI時代への“おぞましい魅惑”として蘇ってきたのである。


トップページへ戻る